Chapter 1: 災難の始まり
ウィズの魔道具店は相変わらず薄暗く、棚には得体の知れない品物が所狭しと並んでいた。カズマは店の奥で珍しい魔道具を物色していたウィズに声をかけようとして、うっかり棚に肘をぶつけてしまった。
「あっ」
小さな薬瓶が棚から転がり落ちた。カズマは反射的に手を伸ばしたが、瓶は彼の指先をすり抜けて床に落ちた。割れる音はしなかった。代わりに、栓が外れて透明な液体が飛び散った。
「何これ――」
カズマの口に数滴入った。甘い味がした。次の瞬間、体が熱くなった。
「カズマさん! それは――」
ウィズが振り返って叫んだが、遅かった。カズマの体が光に包まれた。視界がぐにゃりと歪み、服が急に大きくなった。違う、服が大きくなったんじゃない。自分が小さくなっているんだ。
光が消えた時、カズマは自分の服の中に埋もれていた。体が動かない。いや、動くには動くが、手足が思うように制御できない。声を出そうとしても、出てくるのは「うえーん」という泣き声だけだった。
「あああ、若返りの薬が!」
ウィズが駆け寄ってきて、服の中からカズマを拾い上げた。カズマの視界にウィズの心配そうな顔が映った。自分の手を見ると、ぷにぷにとした赤ん坊の手になっていた。
冗談だろ。
カズマは叫ぼうとしたが、また泣き声しか出なかった。
「カズマさん、大丈夫ですか? 意識はありますか?」
ウィズが優しく揺さぶる。カズマは必死に頷こうとしたが、首がうまく動かず、ただ首がかくんと揺れただけだった。
「これは困りましたね……あの薬は本来、老化した冒険者が若さを取り戻すためのものなんですが、若い人が飲むと赤ん坊まで戻ってしまうんです」
ふざけるな! 解毒剤は? 元に戻す方法は?
カズマは訴えかけるように「ふぎゃあ!」と叫んだ。
「ああ、カズマさん、泣かないでください。えっと……効果は一週間で切れます。それまで待てば自然に元の姿に戻りますから」
一週間だと? 一週間もこのままか?
カズマの絶望的な泣き声が店内に響いた。
「なんだって? カズマが赤ん坊に?」
アクアは目を丸くしてカズマを見下ろした。ウィズが急いでパーティーメンバーを呼び集めたのだ。
「はい。一週間は元に戻りません。それまでどなたかに世話をお願いしたいのですが……」
「無理無理無理!」
アクアは即座に両手を振った。
「私は女神よ? 女神が赤ん坊の世話なんてするわけないでしょ。おむつ替えとか? 絶対無理。私は水を操る高貴な存在なのよ」
てめえ、後で覚えてろよアクア!
カズマは怒りに震えたが、体が震えているようにしか見えなかった。
「ダクネスさんは?」
ウィズが期待を込めて十字騎士を見た。ダクネスの顔は真っ赤だった。
「む、無理だ! こんな……こんな無防備な姿のカズマ様を世話するなど、私には刺激が強すぎる!」
お前の中でどんな妄想が展開されてんだ!
「服を着替えさせたり、体を洗ったり……ああ、考えただけで……いや、ダメだ! 私が世話をしたら、きっと何か変なことになる!」
ダクネスは顔を両手で覆って逃げるように後ずさった。
残ったのはメグミンだけだった。
紅魔族の少女は腕を組んで難しい顔をしていた。
「私は爆裂魔法の使い手であり、育児など経験がない。赤ん坊の扱いなど知らんぞ」
「でも誰かが世話をしないと……」
ウィズが困り果てた表情を浮かべた。アクアがにやりと笑った。
「じゃあくじ引きで決めましょう! 一番短い棒を引いた人がカズマの面倒を見る!」
「それは不公平では……」
メグミンが抗議したが、アクアはもう棒を用意していた。どこから出したのか、四本の棒が彼女の手にあった。
「はい、引いて引いて!」
ウィズが申し訳なさそうに棒を引いた。長い。ダクネスも引いた。これも長い。アクアは自分で引いて、「やった、長い!」と叫んだ。
メグミンの手に残ったのは、明らかに短い棒だった。
「……なぜだ」
メグミンは天を仰いだ。
「決まりね! メグミン、カズマをよろしく!」
アクアは嬉しそうに手を叩いた。カズマは複雑な気持ちでメグミンを見上げた。メグミンは深いため息をついて、カズマを抱き上げた。
「一週間だけだ、我慢しろカズマ」
メグミンの声は諦めに満ちていた。カズマは彼女の腕の中で小さく身じろぎした。
メグミンの部屋は質素だった。ベッドと小さな机、それに爆裂魔法の研究書が積まれているだけだ。彼女はカズマをベッドに寝かせると、腰に手を当てて考え込んだ。
「まず何が必要か……おむつ、ミルク、着替え……ああ、頭が痛い」
カズマは天井を見つめながら自分の状況を整理しようとした。意識ははっきりしている。考えることもできる。だが体は完全に赤ん坊だ。言葉は話せず、手足は思うように動かず、排泄のコントロールもできない。
最悪だ。
「とりあえず着替えが必要だな。その服は大きすぎる」
メグミンは部屋を出て、しばらくして赤ん坊用の服とおむつを抱えて戻ってきた。どこから調達したのかは聞かない方がいいだろう。
「では、着替えさせるぞ」
メグミンはカズマの大きな服を脱がせ始めた。カズマは羞恥心で顔が熱くなるのを感じた。赤ん坊の体でも恥ずかしいものは恥ずかしい。
「むう、小さいな。本当に赤ん坊だ」
メグミンは独り言を言いながら、カズマを裸にした。カズマは必死に抗議の声を上げたが、「ふぎゃあ」としか聞こえない。
「泣くな。すぐに終わる」
メグミンは慣れない手つきでおむつを広げた。彼女の顔には困惑が浮かんでいた。
「これを……こうして……」
彼女はカズマの足を持ち上げて、おむつを下に敷いた。カズマは目を閉じた。こんな屈辱的なことがあるか。
「よし、できた……と思う」
おむつは少し歪んでいたが、一応装着された。メグミンは額の汗を拭った。
「次は服だな」
小さな服をカズマに着せるのは思ったより難しかった。赤ん坊の手足は柔らかく、どう動かせばいいのかメグミンにはわからなかった。カズマの腕が袖に引っかかり、メグミンは「すまん」と謝りながら何度もやり直した。
ようやく服を着せ終えた時、メグミンは疲れ切った顔をしていた。
「育児とはこれほど大変なのか……」
彼女はベッドに座り込んだ。カズマは彼女を見上げた。メグミンの顔には普段見せない脆弱さがあった。
「カズマ、お前の意識があるのはわかっている。だが私にはお前の考えがわからん。これから一週間、どうすればいいんだ」
カズマも同じことを考えていた。意思疎通ができない。これは想像以上に辛い。
メグミンはカズマを抱き上げて、膝の上に座らせた。
「とりあえず、基本的な世話はする。食事、睡眠、清潔……あとは何だ?」
カズマは彼女の顔を見た。メグミンは真剣だった。紅魔族らしく、彼女は責任を全うしようとしている。
「ミルクが必要だな。ウィズさんが用意してくれると言っていた」
その時、ドアがノックされた。ウィズが哺乳瓶とミルクの缶を持って入ってきた。
「メグミンさん、これを。作り方は缶に書いてあります」
「ありがとうございます」
メグミンはミルクを受け取った。ウィズは申し訳なさそうにカズマを見た。
「本当にごめんなさい、カズマさん。一週間我慢してくださいね」
ウィズが去った後、メグミンは缶の説明を読みながらミルクを作り始めた。お湯を沸かし、粉を溶かし、温度を確認する。彼女の動きは慎重だった。
「よし、できた」
メグミンはカズマを抱き上げて、哺乳瓶を口に近づけた。カズマは抵抗したかったが、空腹を感じていた。赤ん坊の体は正直だった。
乳首が唇に触れた瞬間、本能的に吸い始めてしまった。
温かいミルクが口の中に広がった。甘くて、優しい味がした。カズマは自分の意志に反して夢中でミルクを飲んだ。
メグミンは静かにカズマを見下ろしていた。彼女の表情は柔らかかった。
「ちゃんと飲んでいるな。良かった」
カズマは恥ずかしさで死にそうだったが、空腹には勝てなかった。哺乳瓶が空になると、メグミンはカズマを肩に抱えて背中を叩いた。
「げっぷをさせるんだったな」
カズマは自分の意志とは無関係に、大きなげっぷをした。
「よしよし」
メグミンは満足そうに頷いた。彼女はカズマをベッドに戻そうとしたが、その時カズマの体に違和感が走った。
おむつが温かくなった。
まさか。
カズマは絶望した。メグミンは最初気づかなかったが、すぐに異変に気づいた。
「あ……そうか、おむつ替えが必要か」
彼女の顔が硬直した。
「これは……私がやらねばならんのか」
カズマは泣きたかった。いや、実際に泣いていた。赤ん坊の体は正直に不快感を表現した。
メグミンは深呼吸をした。
「仕方ない。これも世話のうちだ」
彼女は新しいおむつを取り出して、カズマの服を脱がせ始めた。おむつを開いた瞬間、メグミンの顔が真っ赤になった。
「こ、これは……」
彼女は目を逸らしながら、おむつを替え始めた。カズマは羞恥心で頭がどうにかなりそうだった。メグミンに、よりによってメグミンにこんなことをさせるなんて。
「動くな、カズマ。すぐに終わる」
メグミンの声は震えていた。彼女は慣れない手つきでカズマを拭き、新しいおむつを装着した。今度は最初よりも少しましだった。
「……終わった」
メグミンは大きく息を吐いた。彼女の顔は火照っていた。
「これを一週間……私は耐えられるのか」
カズマも同じことを思っていた。
メグミンはカズマを抱き上げて、窓の外を見た。夕日が部屋を橙色に染めていた。
「長い一週間になりそうだな、カズマ」
カズマは彼女の腕の中で小さく体を震わせた。メグミンの体温が心地よかった。彼女の心臓の音が聞こえた。
この状況は最悪だ。だが、メグミンが世話をしてくれるなら、まだ耐えられるかもしれない。
そんなことを考えていると、また眠気が襲ってきた。赤ん坊の体はすぐに疲れる。
「眠いのか? では寝かせよう」
メグミンはカズマをベッドに寝かせた。だが一人で寝かせるには不安だったのか、彼女は自分もベッドに横になった。
「私も疲れた。少し休もう」
メグミンはカズマの隣に寝転んで、小さな体を見つめた。
「不思議だな。お前がこんなに小さくなるなんて」
カズマは彼女を見返した。メグミンの赤い瞳が近くにあった。
「でも安心しろ。一週間、ちゃんと面倒を見る。私は紅魔族だ。責任は果たす」
彼女の言葉には決意があった。カズマは少しだけ安心した。
眠気が強くなり、意識が遠のいていく。最後に見たのは、メグミンの優しい表情だった。
夜中、カズマは泣き声で目を覚ました。自分の泣き声だと気づくまで数秒かかった。
おむつがまた濡れていた。
メグミンも目を覚ました。彼女は眠そうな目をこすりながら起き上がった。
「また替えるのか……」
彼女は疲れた声で言ったが、文句は言わなかった。ランプを灯して、またおむつを替え始めた。
この時のメグミンは無言だった。機械的におむつを替えて、カズマを抱き上げてあやした。
「静かにしろ、カズマ。夜だぞ」
カズマは泣き止もうとしたが、体が言うことを聞かなかった。メグミンは優しく揺すりながら、小さな歌を口ずさみ始めた。紅魔族の子守歌だった。
不思議と落ち着いた。カズマの泣き声が止まった。
「効いたか。良かった」
メグミンは安堵の息を吐いて、カズマを抱いたままベッドに戻った。
「このまま朝まで寝てくれ。頼む」
彼女はカズマを胸に抱いたまま横になった。カズマは彼女の心臓の音を聞きながら、また眠りに落ちた。
朝日が部屋を照らした時、メグミンはまだカズマを抱いたまま眠っていた。
カズマは彼女の寝顔を見た。普段は自信に満ちた表情をしているメグミンが、今は穏やかな顔で眠っている。
一週間。
この状態があと六日続く。
カズマは深くため息をつこうとしたが、出てきたのは小さな吐息だけだった。
メグミンが目を覚ました。彼女はカズマを見て、小さく微笑んだ。
「おはよう、カズマ」
カズマは「ふぇ」と返事をした。
「さて、今日も長い一日になるぞ」
メグミンはカズマを抱き上げて、窓の外を見た。
「まずはおむつ替えだな」
カズマの体が硬直した。
メグミンは彼の反応に気づいて、少しだけ笑った。
「慣れろ、カズマ。これから何度もやることになる」
彼女は新しいおむつを取り出した。
長い一週間が、今始まったばかりだった。
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