Chapter 1: 男子と話すなんて初めて
白峰学園の校門をくぐった瞬間から、違和感はあった。
天玄は入学式の案内に従って校舎に入ったが、周りを行き交う生徒が全員女子だと気づくまでに数秒もかからなかった。それ自体は事前に知っていたことだ。この学校が元々女子校で、今年度から男子の受け入れを始めたという話は説明会で聞いている。
しかし、知っているのと実際にその場に立つのとではまったく違う。
廊下ですれ違う女子たちの視線が一瞬で自分に集中するのを感じた。ひそひそ声が聞こえる。「あれが男子?」「本当にいるんだ」「思ったより小さいね」。声はささやき程度だが、天玄の耳にははっきり届いた。
身長175cm。天玄は自分の体格にコンプレックスを持ったことはなかった。普通だと思っている。だがこの世界では「小柄な男性」に分類されるらしい。すれ違う女子たちの多くが自分より高い位置から見下ろしている。彼女たちの平均は178cmだと入学案内に書いてあった。
教室のドアを押すとき、一瞬手が止まった。
1年A組。このクラスの名簿には自分の名前しか男子がいないと聞いている。つまり女子38人の中に一人だけ放り込まれることになる。
深呼吸を一つ。覚悟を決めてドアを開けた。
教室の中の空気が変わった。ざわついていた会話がぱったり止む。38の視線が一斉に天玄に向けられる。窓側の席で話していたグループも、前列で教科書をめくっていた生徒も、誰もが一様にこちらを見ていた。
天玄は足を踏み入れた。自分の席を探すために教室内を見渡す。担任から前もって送られてきた座席表では、窓側の後ろから二番目が自分の席だった。
歩くたびに視線が追いかけてくる。ヒソヒソという声が再び聞こえ始める。彼女たちの間にいるという事実が、物理的な重さとしてのしかかってきた。
目的の机の前で立ち止まる。隣の席にはすでに女子が座っていた。
藤堂美桜。名簿で見た名前だ。肩にかかる明るい茶色の髪、整った顔立ち。学校指定のブレザーを着ているが、胸の部分が明らかに前に押し出されている。この世界の女子の平均がFカップ以上だという話は聞いていたが、実際に目にするとかなりの迫力だ。
天玄は自分の席に鞄を置いた。隣の美桜が顔を上げる。目が合った瞬間、彼女の表情がぱっと輝いた。
「あっ、もしかして西岡くん?」
その口調は驚くほど普通だった。さっきまで廊下で感じていた好奇の視線や噂話とは違う、純粋な興味と親しみが混ざったような声。
「えっと、そうだけど」
「やっぱり! 隣の席なんだよね、私!」
美桜はにっこり笑った。その笑顔に悪意はまったくなかった。むしろ、新しいクラスメイトに話しかけるごく普通の女子高生の表情だった。
「男子と話すなんて初めて〜」美桜は前のめりになって言った。「ずっと女子校だったからさ。どんな人なのかなって思ってたんだよね」
天玄は少し戸惑いながらも返事をした。「そうなんだ。俺も女子校に一人で入ることになるとは思ってなかったけど」
「ははっ、緊張してる?」
「まあ、ちょっとは」
「大丈夫だよ! 何かあったら隣の席の私が守ってあげるから!」
美桜は自分の胸を軽く叩いて見せた。その動作で制服の胸元がふわりと揺れる。天玄は思わず目をそらした。
「ありがとう」
「ううん、こちらこそ! よろしくね、西岡くん」
美桜はもう一度笑顔を見せてから前を向いた。その自然な様子に、天玄は少しだけ緊張が和らいだのを感じた。
チャイムが鳴り、担任が入ってくる。ホームルームが始まった。出席確認や諸連絡が淡々と進んでいくが、担任の女性教師も時々天玄の方に視線を向けていた。やはり男子がいるというのが珍しいのだろう。
最初の授業は現代文。教科書を開きながら、天玄は周囲の雰囲気を探った。前の席の女子が何度も振り返ってちらちら見ている。斜め前の席の女子も同様だ。視線の集中砲火という言葉がぴったりだった。
でも美桜だけは普通だった。ノートをとりながら時々小さくうなずく。時計を確認する様子も自然だ。隣の席に男子がいることを特別視しているようには見えなかった。
天玄は少しほっとした。このクラスで一人だけの男子としてやっていくには、こういう普通の関係を築ける相手が一人でもいるといい。
授業が始まって十分ほど経った頃だった。天玄が教科書の行を追っていると、左側から小さな衝撃があった。
美桜の指が、机の下で天玄の左手に触れていた。
最初は偶然かと思った。彼女も教科書をめくっている最中で、うっかり当たっただけかもしれない。だが彼女の指はすぐに離れず、天玄の手の甲をそっと撫でた。
天玄が驚いて顔を上げると、美桜は前を向いたまま黒板を見ていた。だが口元がわずかに緩んでいる。彼女はわざとやっている。
美桜の指が天玄の手をそっと握る。そして何かを書き始めた。指で天玄の手のひらに文字をなぞっている。
それは「ひるやすみ」という文字だった。
美桜が手を離すと同時に、ノートの端を少しだけこちらにずらした。そこにはきれいな字で「昼休み、一緒にご飯食べよう」と書かれていた。その下には「返事はノートに書いてね」という追記もある。
天玄はペンを取った。正直、どう返事をするか迷った。でも断る理由もない。新しい学校で最初の昼食だ。一人よりは誰かと食べたほうがいい。
「いいよ」とだけ書いて、ノートを美桜の方に戻した。
美桜はちらりとノートを確認すると、また口元を緩めて前を向いた。その後は授業中に何かを仕掛けてくることはなかった。
二限目、三限目と授業が進む。天玄はなるべく集中しようとしたが、どうしても周りの視線が気になる。教科書の内容は普通だ。この世界の教育は特に変わっているわけではないらしい。ただ周囲が全員女子というだけで、これほど疲れるものなのか。
そういえば、他の男子生徒はどうしているんだろう。この学校には他にも男子が数人在籍していると聞いたが、今日の登校では一人も見かけなかった。彼らも別のクラスで同じような状況に置かれているのだろうか。
四限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。待ちに待った昼休みだ。
天玄がのびをしようとした瞬間、右腕に強い力がかかった。
「ちょっと来て!」
美桜が天玄の腕を掴んで立ち上がっていた。その勢いに引きずられるように、天玄も立ち上がらされる。
「えっ、ちょっと待って」
「いいからいいから!」
美桜は天玄の返事を待たずに歩き出した。その力は想像以上に強く、抵抗しようとしても腕が抜けない。彼女の身長は自分と同じくらいか、少し高いかという程度だが、握力が段違いだった。
「どこ行くんだよ」
「秘密!」
美桜は振り返ってウインクした。その表情には無邪気な笑顔があるだけだったが、天玄の中に嫌な予感が走る。
彼女に引きずられるまま廊下を曲がる。そしてその先にあったのは、女子トイレの入り口だった。
「ま、待って! ここ!」
天玄が足を止めて抵抗しようとしたが、美桜は構わずドアを押し開けた。中から女子の話し声が聞こえるが、美桜は一切気にしていない。
「ちょっとだけだから!」
「無理だって、俺男子だし!」
「大丈夫大丈夫、誰もいないから」
実際、個室のドアは全て開いていた。中には誰もいない。美桜は一番奥の個室の前に立つと、天玄を中に押し込んだ。
「ほら、入って」
天玄が後ずさりしようとしたが、美桜がその隙間に入り込んでくる。狭い個室の中に二人。膝が触れ合う距離だ。美桜が振り返ってドアの鍵をかける。カチリという金属音が耳に響いた。
個室の中は思いのほか狭かった。天玄の背中が冷たい壁に当たる。正面には美桜が立っていて、彼女の胸元が視界いっぱいに広がっている。距離にして三十センチもない。化粧品のような甘い香りが漂ってきて、天玄は無意識に息を止めた。
美桜が鍵をかける音がやけに大きく聞こえた。この空間に二人だけだという事実が急に現実味を帯びてくる。
「ちょっとだけ見せて?」
美桜がそう言いながら、天玄の下半身に向かって手を伸ばした。スカートの布が擦れる音がして、彼女の指が天玄の制服のズボンの辺りを探っている。
「何をする気だよ!」
天玄は反射的に彼女の手首を掴んでいた。自分の手が震えているのがわかる。握った手首は細いが、思ったより骨ばっていた。
美桜は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに口元を緩ませた。
「えー、ケチ」
「ケチってそういう問題じゃないだろ! ここ女子トイレだし!」
「だから誰も来ないんだよ」
美桜がもう一度手を伸ばそうとする。天玄は掴んだ手を離さずに、反対の手で彼女の肩を押した。押し返そうとしたのだが、美桜はびくともしなかった。彼女の体は柔らかそうに見えて、重心がしっかりと地面についている。
「大人しくしててよ」
美桜の声のトーンが変わった。さっきまでの明るさの中に、どこか断固とした響きが混ざる。彼女は天玄の両手首を片方の手で掴むと、壁に向かって押し付けた。
「えっ」
その力の強さに天玄は息を呑んだ。彼女の指は細いのに、手首を固定する力は金属の拘束具のように強固だった。天玄がもがこうとすればするほど、手首に食い込む力が増す。
美桜のもう一方の手が天玄の制服の前ボタンに触れた。指先が器用に動く。一つ、また一つとボタンが外されていく。ワイシャツの前も開けられて、胸元が肌寒さを感じた。肌に直接彼女の視線が触れるようで、天玄は背筋が冷えるのを感じた。
「やめろって!」
天玄が声を張り上げると、美桜は軽く首をかしげた。
「声、大きいよ。先生が来ちゃうかもね」
その言葉に天玄は口をつぐんだ。確かにここは女子トイレだ。大声を出せば誰かが来るかもしれない。だがそれは自分にとって助けになるのか、それとも状況をさらに悪化させるだけなのか。
迷っている間に、美桜の手がワイシャツの中に入り込んできた。彼女の指が胸の辺りを撫でる。くすぐったさと緊張が混ざった感覚が走る。
「きれいな肌してるね」
美桜がそうつぶやいた。その声はどこか感嘆の響きを含んでいた。まるで美術品を鑑賞するような口調だ。
そして次の瞬間、天玄の顔の前に美桜の胸があった。Fカップと聞いていたが、実際に目の前にすると想像以上の存在感だ。ブレザーとワイシャツの上からでも、その隆起がはっきりとわかる。
美桜が体を寄せてきた。天玄の顔が彼女の胸に押し付けられる。柔らかい感触が頬と鼻に広がった。女性の体の温もりと、布地を通して伝わる体温。そして何より、その重みと柔らかさが思考を鈍らせる。
「逃げないでよ」
美桜の声が耳元で響いた。彼女の両手が天玄の頭を包み込むようにして、さらに胸に押し付ける。天玄の顔全体が彼女の乳房の間に埋もれていった。息がしづらい。圧迫感が徐々に強くなる。
天玄は両手で美桜の体を押し返そうとしたが、彼女の体は思ったより固く、なかなか動かない。彼女もそれなりの力を入れているのだろう。必死に押すが、美桜は一歩も退かない。
「んー、あったかいね」
美桜が満足そうな声を漏らした。彼女の胸がさらに天玄の顔に押し付けられる。布地の繊維の感触が肌に当たる。柔らかく、温かく、そして少し息苦しい。鼻腔に広がるのは石鹸の香りと、ほのかな汗の匂いだった。
天玄が顔を横に向けて呼吸を確保しようとすると、美桜がその動きに合わせて胸の位置を調整してくる。完全に逃げ道を塞ぐように。両側から押しつぶすように包み込まれて、顔を動かすことすら難しかった。
「ちょ、っと…」
「静かにしててね」
美桜の声は穏やかだった。怒っているわけでも、興奮しているわけでもない。ただ当然のこととして、この行為を行っている。
そして彼女の手が天玄の腰に触れた。指がベルトのバックルを探る。カチリという金属音とともにベルトが外された。ジッパーが下ろされる音が、耳元でやけに鮮明に聞こえた。
「えっ、おい!」
天玄が慌てて声を上げるが、美桜の胸に顔を押さえつけられて上手く言葉にならない。彼女の手が遠慮なくズボンのウエスト部分を掴む。
一気に引き下ろされた。
ズボンと下着が同時に腿の中央まで下げられる。急な冷気が下半身を襲う。天玄は反射的に脚を閉じようとした。太腿に力を入れて、隙間をなくそうとする。
だが美桜の動きは速かった。彼女の太腿が天玄の両脚の間に滑り込む。太くて温かい感触が内腿に触れた。彼女の脚が力を込めて左右に開いていく。天玄の抵抗なんて無意味だった。彼女の脚力の前に、閉じようとした脚が強制的に押し開かれる。
「やめ…っ」
天玄の声が震えた。下半身が露出している。冷たい空気が直接肌に触れる。誰かに見られるかもしれないという恐怖と、目の前の状況に対する混乱が同時に押し寄せてきた。
美桜が一歩下がって、天玄の全身を見渡せる位置に立った。彼女の視線が天玄の体を下から上へと這う。特に下半身の辺りで一瞬止まった。
「すごい」
美桜が小さく息を漏らした。その言葉に、天玄の顔が一気に熱くなった。羞恥と怒りが混ざった感情が喉の奥で渦巻いている。だが、手足の自由が効かない。両手は彼女に押さえられ、脚の間には彼女の太腿が入り込んだままだ。
美桜の指が天玄の太腿の内側をそっと撫でた。その感触に天玄の体が跳ねる。くすぐったさと緊張が混ざった感覚が皮膚の下を走る。彼女の指はゆっくりと、確かめるように動く。天玄の肌に触れるたびに、小さな電流が走るようだった。
「本当に男子って、こうなってるんだ」
美桜の声には詰まるような響きがあった。彼女は指先でなぞるのをやめて、今度は手のひら全体で天玄の腿の内側を包み込むように触れた。その温かさに、天玄の肌が粟立つ。
美桜の手が天玄の硬くなった部分に触れた。指先が慎重に、しかし確実にそれを包み込む。その温かさと柔らかさに、天玄の全身がこわばった。触れられているという事実が、思考を追い越して直接体に響く。
「きれいな形してる」
美桜がそう言った。指でそっと撫でるように触れながら、まるで珍しいものを鑑賞するような口調だった。天玄は何も言い返せなかった。喉の奥で言葉がつかえて出てこない。
美桜が自分のスカートをまくり上げた。白いショーツが一瞬見えて、すぐに彼女の手がそれを横にずらす。覗いたのは、少し湿り気を帯びたその場所だった。天玄は思わず目をそらした。
「入れるね」
美桜の声は優しかった。彼女の手が天玄の硬くなった部分を導く。先端が何かに触れた。ぬめりとした温かいもの。その感覚に天玄の背筋が震える。
「まっ、待っ」
言葉が終わらないうちに、美桜が腰を押し付けてきた。一気に。天玄の全身が硬直する。自分の一部が彼女の中に飲み込まれていく感覚。熱い。狭い。締め付けが圧倒的だった。中の壁が蠕動するように動いて、飲み込む力を強めていく。
天玄の呼吸が止まった。頭の中が真っ白になる。触れたことのない温度と圧力が、自分の存在をどこか遠くに追いやる。彼女の中は熱くて、狭くて、そして生きているように動いていた。
美桜が小さく息を漏らした。彼女の顔が少し赤くなっている。目が半分閉じられていて、どこか恍惚とした表情だった。
「入った」
その言葉が天玄の耳に届くまでに数秒かかった。彼女の中に、自分が入っている。その事実がゆっくりと天玄の意識に浸透してきた。
美桜が腰を少し引いた。それに伴って、内部の壁が天玄の一部を擦る。吸い付くような感触。そして再び押し戻される。前後する動きがゆっくりと始まった。
「動くよ」
美桜の声が耳元で響く。彼女は笑っているようだった。楽しそうに、軽やかに。まるでダンスでもしているかのような軽やかさで。
天玄は壁に手をついた。足に力が入らない。彼女の動きに合わせて体が揺れる。彼女の中は規則正しく収縮していて、その律動が天玄の感覚を支配していく。
「やめ…」
声が掠れた。絞り出した言葉は、美桜の耳に届いたのかどうかもわからない。彼女の腰の動きが徐々に速くなる。内部の圧力が増す。壁が天玄の一部を締め付けて、離して、また締め付ける。
「すごい…気持ちいい」
美桜の声が少し震えていた。彼女の手が天玄の肩に回される。体重がかかって、天玄は壁に背中を押し付けられた。彼女の胸が天玄の胸に当たる。布越しに伝わる体温と、動くたびに揺れる柔らかさ。
天玄の意識が遠のきかける。快感と混乱が混ざった波が、全身を駆け巡る。彼女の内部の温度、動き、圧力。それらが天玄の存在を飲み込んでいく。
「もっと…」
美桜の腰の動きが激しくなる。天玄の体が勝手に反応する。自分でも制御できない力が、彼女の中で膨らんでいく。限界が近いのを感じる。止めようと思っても止められない。彼女の動きに合わせて、体が先に進んでしまう。
「あっ…」
声が出た。美桜の中で何かが変わった。彼女の内部の壁が一瞬強く収縮して、そして天玄の全身を駆け抜ける感覚が押し寄せた。白い光のようなものが視界の端をよぎる。頭の中が真っ白になる。何も考えられない。ただ、体の奥から湧き上がる熱だけがあった。
美桜が天玄の体に寄りかかった。彼女の息が耳元で荒い。汗の匂いと体温が混ざった空気が、天玄の肺に満ちていく。
しばらくの間、二人は動かなかった。個室の中に、荒い呼吸だけが響く。
やがて美桜がゆっくりと体を離した。彼女の内部から天玄の一部が滑り出る。ぬるりとした感覚が残った。急に冷えた空気が肌に触れる。
美桜がスカートを直した。ショーツの位置を整え、ブレザーの襟を軽く直す。彼女の動きは自然で、一分前の出来事が嘘のように落ち着いていた。
天玄は壁にもたれたまま動けなかった。下半身が露出していることすら、今はどうでもよかった。ぼんやりと天井を見上げる。白い天井にひび割れが一本入っている。それがやけに目に焼き付いた。
美桜が天玄の首に顔を寄せた。柔らかいものが肌に触れる。キスだった。軽く、短い。その感触が、まるで遠いところから伝わってくるようだった。
「また明日ね」
美桜が笑顔で手を振った。鍵を開ける音がして、ドアが開く。彼女が個室を出ていく後ろ姿を、天玄はただ見送ることしかできなかった。
足音が遠ざかる。トイレの出入り口のドアが閉まる音が響いて、あとは静寂だけが残った。
天玄は天井を見上げたままだった。白いひび割れを見つめながら、今日が入学初日だという事実を反芻する。まだ午前中だ。あと何時間もある。そして明日も、明後日も、これから三年間、この日々が続く。
壁の冷たさが背中に染みる。天玄はゆっくりと腰を下ろした。体の力が抜けて、その場に座り込む。自分の呼吸の音だけが、個室の中に虚しく響いていた。
初めての。隣の席の。藤堂美桜。
その名前が頭の中で繰り返される。彼女の笑顔。彼女の声。彼女の体温。すべてがまだ鮮明に残っている。しかしその記憶に、自分がどう反応すればいいのか、天玄にはわからなかった。
しばらくして、立ち上がった。着崩れた制服を整える。下着とズボンを引き上げる手が震えていた。腰のベルトを締め直す。壁にもう一度手をついて、深く息を吸った。
鍵がかかっていないドアを見つめる。外の気配はない。
天玄はゆっくりとドアを開け、洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。普通の顔だった。何も変わっていないように見える。だが、確かに何かが変わった。
自分は何をされたのか。あるいは、自分は何をしたのか。
その問いの答えは、まだ出なかった。
天玄は水道の蛇口をひねった。冷たい水が手のひらに落ちる。顔を洗おうとして、やめた。今ここで何をしても、意味がないような気がした。
ハンカチで手を拭き、天玄は女子トイレのドアを押し開けた。廊下には誰もいない。教室からは、昼休みの喧騒が聞こえてくる。
天玄はゆっくりと歩き出した。自分の教室へ向かう足取りは重かったが、その重さを自分はどう扱えばいいのか、まだわからなかった。
教室のドアの前で立ち止まる。中からは複数の女子の笑い声が聞こえる。
深呼吸を一つ。覚悟を決めて、ドアを押した。
中に入ると、何人かの視線が一瞬自分に向けられた。しかしすぐに元の会話に戻る。何事もなかったかのように。
自分の席に座る。隣の席は空いていた。藤堂美桜の姿はどこにもない。
天玄は机に突っ伏した。目を閉じると、まだ体温が残っているような気がした。彼女の匂いが、肌に染み付いている。
今日の日のことを、自分はきっと忘れないだろう。そう思った。
だがその意味を、まだ天玄は理解していなかった。これから始まる三年間の、ほんの一端に過ぎないことを。この世界で男性であることの、本当の意味を、まだ知らなかった。
昼休みのチャイムが鳴り響く。午後の授業の始まりを告げる音が、遠くから聞こえてくる。
天玄はゆっくりと顔を上げた。窓の外を見る。春の日差しが校庭を明るく照らしていた。白峰学園の入学初日は、まだ終わっていない。
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