Chapter 1: 墜ちた果実の鳴動

ひび割れた窓ガラスの隙間から、毒々しいネオンの光が室内へと這い入ってくる。その光は、淀んだ空気の中で踊る塵を不気味な色彩で染め上げ、冷たい床の上に歪な格子模様を描き出していた。外の空気は重く、大気を覆う有毒なスモッグが肺の奥をじりじりと焼くような感覚を常に伴う。この世界は、とうの昔に終わっていた。

資本主義という名の巨大な怪物が、かつて「社会」と呼ばれていた枠組みを完全に食い荒らした後の残骸がここにある。金こそが絶対的な正義であり、命の価値を決定する唯一の物差しとなっていた。そこには中間層という緩衝材など存在せず、富を独占する強者と、泥を啜る敗者の二極化が極限まで進んでいる。摩天楼の頂上で純度の高い空気を吸う選ばれた者たちと、このスラムで腐っていく虫ケラのような脱落者たちの間には、決して超えられない絶壁が横たわっていた。

かつて、この家もその絶壁の「上側」にいた時期があった。

父は一流の企業に勤める、いわゆるエリートの一員だった。仕立ての良いスーツを纏い、冷徹な計算式を用いて会社の利益を積み上げる姿は、子供の目にも自信に満ち溢れているように見えたものだ。だが、その地位は砂の城よりも脆かった。

システムの暴落という予測不能な事態と、それを好機と捉えた政敵たちの罠によって、父は一瞬にして全てを奪われた。会社を追われ、資産を凍結され、気づけば私たちはこの光の届かない底辺へと叩き落とされていた。エリートという虚飾の皮を剥がされた父は、驚くほど無力な男だった。プライドだけは高層ビルの高さに残したまま、現実に適応するための泥臭い生命力を持ち合わせてはいなかったのだ。

借金取りが昼夜を問わずドアを蹴り、窓を割り、家の中に土足で踏み込んでくる日々が始まった。罵声と暴力が日常となり、家の中からは生活の気配が消えていった。そんな絶望的な状況下で、母だけが父の再起を信じて、家族という形を維持しようともがいていた。

最初は、金目のものを売り払うことから始まった。かつて父が贈ったであろう宝石や、ブランド物の服が、二束三文の端金に変わっていく。だが、そんなものでは膨れ上がった利息を止めることすらできなかった。

次に母が売り払ったのは、自らの臓器の一部だった。

闇医者の不衛生な手術台の上で、彼女は肝臓の半分や片方の腎臓を切り出され、その対価として得た金で、また数日間の猶予を買った。傷跡が癒える間もなく、母は次の「商品」を探さなければならなかった。最後に残されたのは、彼女自身の肉体そのものだった。

母は美しかった。その美貌と、元エリートの妻という「堕ちた貴婦人」の肩書きは、地下の欲望渦巻くマーケットにおいて、何よりも食いつきの良い餌となった。母は借金を返すため、そして父が再び立ち上がるための資金を作るために、ありとあらゆる卑劣で屈辱的な行為を受け入れた。

私は幼いながらに、母が家の外へと連れ出されていく姿を、扉の影から見送っていた。数日後に帰ってくる彼女の肌には、見知らぬ男たちの指の跡や、薬品の注射痕が無数に刻まれていた。地下の撮影スタジオで、彼女はカメラのレンズを向けられ、薬漬けにされ、獣のような男たちに蹂近される日々を過ごした。

母の瞳から、徐々に光が失われていく過程を今でも鮮明に覚えている。かつては優しさと知性を湛えていたその双眸は、やがて何も映さない空虚なガラス玉へと変わっていった。生きながらにして魂が磨り潰され、ただの呼吸する肉の塊へと成り果てていく姿は、この世のどんな地獄よりも残酷だった。

数年前の、冷たい雨が降る夜だった。母はボロボロになった身体を引きずり、泥を纏って家に戻ってきた。しかし、彼女が玄関の冷たいタイルの上に倒れ込んだとき、その身体にはもう、生命を繋ぎ止める力は残っていなかった。過剰な薬物摂取と、酷使し続けた臓器の全不全だった。母は最期まで、何も語ることはなかった。ただ、冷え切ったタイルの上で、ひっそりと息を引き取った。

母が死んでから、父は完全に壊れた。

妻の命を切り売りして得たわずかな金さえ、彼は再起のために使うことはなかった。残されたのは、膨大な借金の残骸と、埃まみれの狭いアパートの角部屋に引き籠る一人の廃人だけだった。

「……ああっ、やめて、そこは……ぁあっ!」

今日も、角部屋の薄いドア越しに、スピーカーから割れた音が漏れ聞こえてくる。それは母が生前に出演させられていた、数多あるポルノ動画の一つだった。

人工的な安っぽいBGMに混じって、水音が絡む生々しい肉の打突音が響く。若き日の母が、屈辱に歪んだ顔で喘ぎ声を上げている。父は一歩も部屋から出ることなく、暗闇の中でモニターが放つ青白い光を顔に浴び続けている。死んだ妻が、他の男たちに蹂躙される映像を、狂ったように繰り返し再生しているのだ。

父にとって、あのデジタルデータ化された母の絶叫だけが、彼女との繋がりを確信できる唯一の絆なのだろう。狂気と呼ぶことすら生ぬるいその光景に対して、私はもう怒りも悲しみも抱かなかった。ただ、胃の底からせり上がってくるような、強烈な吐き気がするだけだった。

「お兄ちゃん……」

背後から、衣擦れの音と共に細い声がした。私は意識を現実へと引き戻し、振り返った。

薄暗い部屋の片隅で、妹の美央が古びた毛布にくるまりながら、不安げな瞳で私を見上げていた。母の面影を強く受け継いだ彼女は、この腐臭が漂うスラムには到底似つかわしくない、透き通るような白い肌を持っていた。その瞳は、壊れやすいガラス細工のように儚く、揺れている。

このまま何もしなければ、彼女もまた母と同じ運命を辿ることになる。借金取りの男たちが彼女を見つけ出し、地下の娼館へと売り飛ばし、肉を削ぎ、魂を奪い尽くすだろう。それだけは、何があっても阻止しなければならなかった。

私は妹を守るためなら、どんなタブーに手を染めることも厭わないと決めていた。父のように、過去に囚われて腐っていく無能な敗者になるつもりは毛頭ない。私は、この残酷な世界を生き抜くための武器を、自らの手で研ぎ澄ませてきた。

裏社会のネットワークの深層に潜り込み、価値のある情報を探り当てては売り捌いた。独学で身につけたハッキングの技術を用い、肥え太った富裕層の隠し口座から、彼らが気づかない程度の端金を掠め取った。だが、そのような小細工では、膨れ上がる借金の利息を相殺するのが精一杯だった。

より効率的に、より莫大な利益を生むための手段を考えたとき、最後に残ったのは、私と妹の容姿という資本だった。

「大丈夫だよ。俺が全部守るから」

私は妹の震える肩を抱き寄せた。彼女の柔らかな髪に唇を落とすと、微かに石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。私たちの間には、世間一般の道徳や倫理などという軟弱な概念が入り込む余地はなかった。生存すること、それだけが私たちの唯一の命題だった。

私は机の上に設置したカメラの録画ボタンを押した。レンズの冷たい視線が私たちを捉える中、私は美央の衣服に手をかけ、ゆっくりとそれを剥ぎ取っていく。

美しき兄妹が、血の繋がりという禁忌を犯し、互いの肌を重ね合わせていく映像。それは、飽食の極みに達し、常軌を逸した刺激を求める富裕層の変態どもにとって、最高のエンターテインメントだった。

暗号資産を介して匿名で配信される私たちの「交尾」は、予想を遥かに超える速度で売れていった。美央の涙ぐむ表情や、私の冷徹な支配欲、そして血族同士が混ざり合う背徳感。それら全てを、私は緻密に演出して切り売りした。

自らの身体を商品として扱い、妹の純潔を金に変える。その行為に対する良心の呵責など、とっくにスモッグの中に捨ててきた。これによって得られる利益で借金の利息を払い、この世界では幻に近い「中流階級」の生活水準をどうにか維持している。

美央の柔らかな身体を抱きしめ、その体温を肌に感じながら、私は暗い天井を見つめた。

角部屋からは、相変わらず母の亡霊のような喘ぎ声がエンドレスで響いている。父は、死者の残響に縋り付いて、このまま静かに腐っていけばいい。だが、私は違う。

私はこの腐敗したスラムの泥濘から這い上がり、必ず世界の頂点に立ってやる。自らの肉体を売り、魂を削り、他者を蹴落としてでも、誰にも脅かされない絶対的な富と権力を手に入れる。妹を二度と怯えさせないために、あの雲を突き抜けた上層の世界へ、必ず彼女を連れて行く。

そのためであれば、人間としての尊厳など安いものだ。道徳も、倫理も、全ては勝者が決める飾りに過ぎない。

狂った父を反面教師として、私は冷酷な勝者になる。いつか必ず、このクソみたいなスラムを足元に見下ろし、澄んだ空気を吸うその日まで。耳元で聞こえる美央の甘い吐息を道連れに、私は自分自身の心に、暗く燃え盛るような決意を深く、深く刻み込んだ。

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